心温まる、優しい詩の世界を描いた金子みすゞ。彼女がどんな生涯を送ったか、ご存知でしょうか?

わたしは迷ったときに何度もみすゞさんの詩を知り心癒されていましたが、後になってからその数奇な人生を知り、詩の世界とのあまりの違いに驚きました。優しい詩とは反対に、彼女の生きた人生はあまりにも悲しい別れやつらい出来事にあふれたものでした。

今回は26年という彼女の短い、けれども力強く歩んだ生涯をご紹介します。

金子みすゞさんをもっと知りたい方に 金子みすゞの生い立ち・詩が生まれた背景は

 

幼いころの家族との別れ

金子みすゞ(本名テル)は明治36年4月11日、山口県大津郡仙崎(現在の長門市仙崎)に生まれました。

父庄之助と母ミチ、祖母ウメ、二つ年上の兄堅助、テル、2つ下の弟正祐の6人家族でした。

父との死別

母ミチの妹フジが嫁いだ下関の上山文英堂はとても大きな書店で、清国にも数店支店を出していました。

店主の松蔵は、清国営口の支店を父庄之助に任せていたため、テルは父と離ればなれに暮らしていました。

明治39年、庄之助は清国で命を落とします。
テルが2才の時の出来事でした。

弟との別れ

幼くして父を失った悲しみを乗り越えようとしていた折、今度は弟の正祐が下関の上山文英堂に養子へもらわれていくことになりました。

母ミチの妹フジと店主松蔵との間には子がいませんでした。父を亡くし、その顔も覚えていない1歳の正祐を跡取りにしようというのです。

こうしてテルは、まだ幼いころに家族との大きな別れを2度も経験しました。
きっと、まだはっきりとはわからなくとも、家族がいなくなったという寂しさ、心細さは痛いほど感じたことでしょう。

学校時代のテル

この頃から金子家は上山文英堂の後押しを受け、長門市に金子文英堂をはじめることになります。

思慮深く優しい人柄

明治43年(1910年)、テルは瀬戸崎尋常小学校に入学します。

1年から6年までずっと級長をし、成績は優秀、本好きで物静かな性格で、学校では友達にもなにかしら尊敬されていたように感じられたそうです。

小学校卒業後、大津高等女学校に入学。
当時女学校に入学できるのは、一つの小学校から数名という時代でした。

女学校での成績もトップクラスで、先生やクラスのみんなにも慕われていた彼女。
ですが、学校までの道のりをひとりで歩くことを好んでいたそうです。

いとこがその理由を聞くと、「皆と行くのは楽しいけれど、たまには誰かのいやな話も聞かなならんしな・・・。一人の方が安気でええ」と答えたとのこと。

人の嫌がることを言わず、人のいやな話も聞かない、内気で思慮深い彼女の性格がうかがえますね。

母との別れ

女学校での生活を送る16才のテルに、またもや家族との別れが訪れます。

大正7年(1918年)、下関の上山文英堂に嫁いでいた、母ミチの妹フジが亡くなりました。
その店主松蔵の後妻にと、母ミチが下関に移り住むことになったのです。

母が後妻として下関に行ったのは、養子に出した実の子・正祐のためにも、との思いもあったのでしょう。

母が正祐のために下関へ行き、一方でテルは兄堅助、祖母ウメと3人になってしまった金子文英堂を手伝うため、教師になる勧めを断ったそうです。

父、弟についで母親までも自分のもとからいなくなってしまったことは、家のためとはわかっていても悲しく心細いことだったでしょう・・・。

詩人「金子みすゞ」の誕生

海洋都市・下関へ

金子文英堂は大津郡ではただ一つの書店で、テレビがない当時の書店は情報がいち早く集まる場所でした。

書店を手伝いながら、テルは本を読み、文学や芸術についての教養や流行りの情報を吸収していました。

テルさんも今でいう芸能界にあこがれるような気持ちを、流行りの文学や小説に抱いていたのでしょうね。

そんな中、兄が結婚することになります。

大正12年(1923年)、居づらくなったテルは金子文英堂を兄夫婦にまかせ、母のいる下関の上山文英堂に移ることになりました。
母親と再び一緒に暮らせることは、本当に嬉しいことだったことでしょうね。

下関の街

テルは下関で、小さな支店で店番をまかされます。 大好きな本に囲まれて、いつでも好きなだけ読める・・・!
その支店はテルにとって自分の王国でした。

この頃、童謡が文学界で隆盛し、童謡雑誌に多くの若者が投稿していました。

テルも雑誌を読み、自分でも創作してみようと童謡を書き始め、「金子みすゞ」として投稿。そして、投稿したすべての童謡が雑誌に掲載されました。

あこがれの文学界へはばたく、童謡詩人・金子みすゞの誕生です!

童謡詩人としての活躍

テルが心酔していた西条八十(さいじょうやそ)が選者を努める『童話』誌上で、テルの「おさかな」と「打ち出の小槌」が西条八十に大きく取り上げられます。

その後次々に作品を投稿し、毎月掲載され雑誌をにぎわせました。

西条八十はテルを「若き童謡詩人中の巨星である」と絶賛します!

しかし西条八十が渡仏し、テルは師と仰いでいた八十がいない雑誌に投稿を控えるようになります。
八十に代わった選者が、テルの詩を評価しなかったからでもありました。

そして一方、テルの知らないところで結婚話も進められていました。

うまくいかない結婚生活

結婚生活と娘の誕生

大正15年(1926年)2月、テルは結婚します。
相手は上山文英堂の番頭格の男性でした。

翌月心酔する西条八十が帰国し、テルは創作活動を再開。『童話』に投稿し誌面をにぎわします。

童謡詩人として活躍する一方、現実の結婚生活では夫とうまくいっていませんでした。

しかし、同じ年の11月、娘のふさえが生まれます。

夫は上山文英堂を出て食料品店を営みますが、売り上げを放蕩に使ってしまう始末。
また、いつも机に向かうテルと距離ができ、家に帰らなくなっていました。

そのうえ、遊郭での病気をテルに移してしまったのです。

テルは次第に身体が弱り、寝ていることが多くなってきます。それでも詩作にはげむテルの姿は夫をいらだたせ、童謡の創作と仲間との文通を禁じました。

早すぎる死

こうしたことが積み重なり、テルは昭和5年(1930年)2月に離婚します。

離婚の条件は「ふさえを自分の手で育てたい」だけでしたが、夫から「どうしてもふさえを連れ戻す」という手紙が届きます。

当時は離婚すれば、親権は夫にしかない時代。
どうしてもふさえを夫の手に渡したくない・・・。その思いから、テルは3通の遺書を残して服毒自殺したといわれています。

夫にあてた遺書には、「あなたがふうちゃんにあげられるのはお金であって、心の糧ではない。どうかわたしを育ててくれたように、母にふうちゃんを預けてほしい」と書かれていました。

テルの願い通り、ふさえは母ミチのもとで育てられることとなったのです。

テルの死後、彼女の書いた作品は散逸し、幻の詩人となっていましたが、童謡詩人矢崎節夫氏の努力により作品が集められ、世に広められることになりました。
そして、現在に生きる多くの人の心をつかみ、よみがえることになったのです。

まとめ・テルさんと詩

もしもテルさんが現代に生きていたならば、家族との別れや命をかけた自殺などのつらい思いをしなくてもよかったのではないか。ふと、そう思うこともあります。

ですが、内気な思慮深さ、幼い日の家族との別れ、複雑な家庭環境、上手くいかなかった結婚生活、かわいい一人娘の存在、そのすべてが、あの温かい詩を生み出す原動力となったのかもしれません。

まだ若く、当時の流行の教養を身に着けていた彼女は、本当は家というしばりから解き放たれたかったのかもしれません。女性にとって生きづらい時代背景の中、心の中の表に出せない閉じ込められた思いは、小さなものを見つめる美しい詩の言葉と変換され、文学の世界に羽ばたきます。

表に出せない自分の分身が詩であったなら、その詩が評価されない、詩を書けないことは自分を表せない、自分を否定されているように感じたのと同じことだったのかもしれません。

詩作を禁じられ、筆を置いたことは、彼女にとって思いの行き場がなくなり、とてもつらかったことでしょう・・・。

そんな「かもしれない」ことを考えながら、もしも今の時代に彼女がいたならば、ゆっくりと向き合って、子育てのこと、詩への思い、そんなたわいもないことを静かにじっくりとお話ししてみたいなあと思うのです。

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